多分SaaSは死なない — エンジニアから見た「SaaSの死」への違和感
2026-03-20
AIエージェントの台頭により「SaaSは死ぬ」という言説が広がっていますが、ガバナンス・責任の所在・内製化の限界・AIコストの持続可能性・SaaS自身の進化という5つの観点から、SaaSが死なない理由を考察します。AIに最も有利な前提を置いた思考実験でも、SaaSの完全な代替は困難であることを示します。
はじめに
2026年1月、AnthropicがAIエージェント「Claude Cowork」を発表し、その後SaaS関連株が大幅に下落する「SaaSpocalypse」と呼ばれる現象が起きました。これをきっかけに、SaaSが不要になるという言説が広まりました。 この言説に対して感じた違和感をこの記事では考えていきます。
対象読者
- SaaS業界で働いている人
- ITに詳しくない方
「多分SaaSは死なない」と考える理由
タイトルにもある通り、私は「SaaSは死なない」と考えています。これには複数の理由があります。
- AIの知能が向上しても、信頼性を具体的に示すことができない
- AIは責任を取らず、使った人に責任が生じる
- AIによって内製化が進んでも運用・保守コストを自社で抱えることになる
- AIのコストはAIを提供している企業が赤字で負担している
- SaaSも進化を続けている
これらの理由を複合的に考慮するとSaaSが死ぬことは現実的ではないと考えています。 以降のセクションでは、SaaSをAIエージェントに完全に置き換えた場合の思考実験を通じて、それぞれの理由を掘り下げます。
思考実験の前提条件
この記事では「SaaSをAIエージェントにそのまま置き換えたらどうなるか」を考えます。AIが原因でSaaSが死ぬというならば、実際に置き換えた状態で思考実験すれば良いはずです。
以下を前提とします。
- AIエージェントは十分に賢い
既存のSaaSが提供する機能(例: 顧客管理、会計処理、プロジェクト管理など)を、指示すれば正確に実行できるだけの知能を持つものとする - AIエージェントは自律的に動作する
人間が逐一指示しなくても、目的を与えれば必要なタスクを自ら判断し実行できるものとする - 既存のSaaSは完全に廃止する
SaaSとAIエージェントを併用するのではなく、SaaSが担っていた役割をすべてAIエージェントに移行した状態を考える
つまり、AIの能力面では最も楽観的なシナリオを仮定します。それでもなお問題が生じることを示すのが、この思考実験の目的です。
AIの知能が向上しても、信頼性を具体的に示すことができない
AIエージェントに対し、「この情報は社外秘なので外部へ漏洩しないこと」と命じたとします。性能は十分なので、実際にAIエージェントは外部へ漏洩することはしませんでした。
ですが、AIに対し、「外部へ漏洩しなかったか」と聞いてもそれが証明になることはありません。通信内容を監視するという方法もありますが、人件費削減や業務効率化を目的にして導入している以上、本末転倒です。
「SaaSの死」論の多くは、SaaSを単なるソフトウェアとして捉えています。しかし、SaaSが実際に提供している価値はそれだけではありません。
品質保証と法的責任
SaaS事業者は、SLAとして稼働率99.9%などを契約で保証し、違反時には返金や補償を行います。これは法的拘束力のある責任の引き受けです。AIエージェントが生成したシステムに障害が起きた場合、その責任を取る主体はどこにもいません。
コンプライアンスと認証
SaaSには、第三者機関によるセキュリティ・プライバシー認証をとっているものがあります。これらはSaaS事業者が多大なコストと時間をかけて取得・維持しているものです。AIエージェントが構築したシステムは、こうした認証を受けていません。第三者機関による認証がされていないシステムを金融・医療など「少しでも失敗してはならない」業務で利用することは困難だと考えています。
コストの分散
SaaSは一つのシステムを複数の企業が共同利用する仕組みで、インフラ費用・開発費用・セキュリティ対策費用を多数の顧客で分散しています。同等の品質をAIエージェントで自社専用に構築しようとすると、これらの費用をすべて自社で負担することになります(システムを自分で設置しないといけないため)。「AIが安くソフトウェアを作れる」としても、運用・セキュリティ・コンプライアンスのコストは残り続けます。
AIは責任を取らず、使った人に責任が生じる
仮にAIエージェントが情報を漏洩していた場合、AIではなく、AIを利用し命じた人に責任が生じます。
これはSaaSとの大きな違いです。SaaS事業者に業務を委託する場合、契約に基づいて事業者側が法的責任を負います。しかしAIエージェントは契約の主体になれません。AIが起こした問題の責任は、すべてAIを使った側が引き受けることになります。
AIによって内製化が進んでも運用・保守コストを自社で抱えることになる
AIエージェントを利用して「自社専用SaaS」を内製化する方法も考えられます。この方法ではおそらく開発に成功し、短期的には導入成功に終わると思います。しかし、長期的に運用するとなると問題となります。
要件がそもそも間違っていた場合
AIがいくら進化しようと、要件は人間が考える必要があります。ここで「不要な機能を入れてしまった」、「この前提条件が漏れていた」というような間違いが混入しやすいです。AIの性能が向上したとしても、AIは与えられた命令に忠実に実装を進めるため、要件の誤りを自ら指摘・修正してくれるとは限りません。
ソフトウェアへの機能追加が容易かは「ソフトウェアの構造」に依存しやすい
複雑な要件をもつソフトウェアの場合、データの構造も複雑化します。このようなデータを壊さないように拡張し続けるのは難しいか不可能であることが多いです。このような問題はAIの性能だけでは解決できませんし、「構造上拡張は不可能」という結論に至る可能性すらあります。仮にできたとしても変更のリスクが大きいなど障壁が高い場合もあります。
また、ソフトウェア開発に完璧な一手は存在しないという、構造的な問題があります。ある時点では完璧な選択をしたとしても、数年運用した後はその選択が間違いだったということは頻繁に発生します。逆に、数年後ではその選択が正解だったとしても、現時点では不正解であることもあります。したがって、実装した時点でその選択が最適であるかはわからないケースの方が多いのです。
運用・保守の負担は消えない
ソフトウェアは作って終わりではありません。セキュリティパッチの適用、インフラの監視、障害対応、バックアップなど、日々の運用業務が発生します。SaaSであればこれらはすべてサービス提供者が担いますが、内製化した場合はすべて自社の責任です。
AIエージェントに運用を任せるとしても、「AIが適用したパッチが既存機能を壊していないか」「障害時の復旧手順は正しいか」を検証する人間が結局必要になります。
安価なAIは提供している企業が赤字で負担している
現在、人件費と比較すると、AIのコストは非常に安価です。しかし、この値段を実現している背景で、各種報道によればAIの事業者は赤字決算です。
具体的な数字を見てみましょう。
- OpenAI
2024年の年間売上は約37億ドルに対し、年間損失は約50億ドル(約7,500億円)。2025年上半期だけで純損失135億ドルを計上しています - Anthropic
2024年の年間売上は約10億ドルに対し、消費は約56億ドル。売上の5倍以上を消費しています
これらの数字が示すのは、現在のAIの利用料金は持続可能な価格ではなく、市場シェア獲得のための投資的な価格設定であるということです。
なぜこれほどコストがかかるのか
AIの運用には莫大なインフラコストがかかります。
- AIの学習・推論に使われるGPU(NVIDIA H100)は1基あたり約2.5万〜4万ドル(約375万〜600万円)1。大規模なAIモデルの学習には数千〜数万基が必要です
- 世界のデータセンターの電力消費は2024年時点で約415TWh(世界全電力消費の約1.5%)に達しており、2030年には約945TWh(約2.3倍)に膨らむと予測されています2
- ChatGPTへの質問1回あたりの電力消費は約2.9Whで、Google検索の約10倍です3
「AIが安いからSaaSを置き換えられる」という前提は、この投資的な価格が永続することで初めて成り立ちます。しかし、AI事業者がいずれ黒字化を目指す段階では大幅に値上げする必要があります。
さらに、SaaSの利用料金は月額・年額で予測可能なのに対し、AIエージェントの利用料金はサブスクリプションの範囲に収まらなければ従量課金制になることが多いです。業務量が増えれば増えるほどコストが膨らむため、コストの予測可能性という観点でもSaaSに優位性があります。
SaaSも進化を続けている
近年、AIを利用した機能を組み込むSaaSは増加傾向にあります。例えば、Google WorkspaceではGeminiを組み込み、Google Drive内のファイルを探したり、Google Documentでは記述をサポートしたりする機能が搭載され始めています。国内SaaSでも同様の動きが加速しています。
- サイボウズ
自然言語でのデータ検索や、チャットでアプリを自動作成する「kintone AIラボ」を展開 - freee
領収書を撮影するだけでAIが経費申請内容を自動推測する「まほう経費精算」や、AIが従業員の質問に自動応答する「freee AIヘルプデスク」を提供 - SmartHR
人事・労務の社内問い合わせにAIが24時間自動回答する「AIアシスタント」を搭載し、社内問い合わせ約20%削減の実績 - マネーフォワード
「No.1バックオフィスAIカンパニー」を掲げ、経費精算のAIエージェントやAI確定申告など、AIネイティブプロダクトを次々にリリース
つまり、SaaSは「AIに置き換えられる側」ではなく、AIを取り込んで進化する側です。SaaS事業者は自社の信頼性・コンプライアンス基盤の上にAI機能を載せることで、個人がAIエージェントで一から構築するよりも安全かつ低コストにAIの恩恵を届けられます。
AIでSaaSが進化したらコスト問題はSaaSにも直撃するのでは?
先ほどAIのコストを話しましたが、SaaS企業がAIの機能を搭載する場合にも影響を与えることになります。しかし、あくまでSaaS基盤機能をAIに依存しておらず、AIのコストが大きくなれば、AIの機能を切り捨てて価格を維持したり、AI機能付きを利用したいユーザだけに提供するなど、いくらでも逃げ道があります。
結論
AIは確かに性能が日々進歩しています。しかし、本記事で見てきたように以下の問題がある以上、AIエージェントだけでSaaSを完全に代替することは困難です。
- ガバナンスの問題 AIの出力を「信頼できる」と証明する手段がなく、責任はAIではなく利用者に帰属する
- 内製化の限界
要件定義の誤り、ソフトウェア構造の複雑化、運用・保守の負担は、AIの性能とは無関係に発生し続ける - SaaS固有の価値
SLA・コンプライアンス認証・コスト分散など、ソフトウェア以外の価値はAIでは再現できない - AIコストの持続可能性
現在の低価格は事業者の赤字に支えられており、値上げリスクと従量課金の不透明さが残る - SaaS自身の進化
SaaSはAIを取り込む側であり、信頼性の上にAIの利便性を載せるという優位なポジションにいる
したがって、AIの導入が進んでもSaaSを切り捨てるという選択は現実的ではなく、SaaSとAIがハイブリッドに共存する形態が今後も続くのではないでしょうか。

